Oasisお勧めCD(第16回)

音楽にこだわりのある、OasisならではのCD紹介コーナーです。

趣味の欄に「コンサート・ライブに行くこと、将棋」と書いたのは、15年前の会社の
社内報でのこと。
当時はバブル最盛期で同期が400人近くもいた。
が、ほとんどが体育会系で、私のようなものは社内ではマイノリティーだった。
(今年も、我が部に配属されてきた新人は190センチ近くある明治の応援団長)

そんな、人前で堂々と「趣味」と言ってきたものに対して最近は情熱を失ってきている。
(このコーナーも3ヶ月近く書けなかったし)
全くライブに行っていない、と言うより行こうという気が起きない。
ただ、人の話を聞いて後悔しているものは幾つかある。
その筆頭は、なんと言っても2月に来たビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソン。
元々は確か昨年10月の来日予定で、その時はちょっと迷ったのだが例のテロの影響で
延期になってしまった。
内容は2部構成で、後半には何とあの「ペット・サウンズ」を曲順通りに演奏したと言う。

  
 

ビーチ・ボーイズについての説明は、それぞれの音楽ファンが持っているイメージ通りなので
省略する。
ひと言付け加えるのなら、竹之内も反町もメンバーにはいない。
60年代前半、サーフィンと車と女と、ビートルズにヒット曲で対抗できる唯一の
アメリカ産白人バンド。
しかし、カリフォルニアという地域限定生産という感が拭い去れない。
確かにデビュー4年はそうだった。
イースト・コーストのリアリズムは、能天気なサーフ・バンドには求められてはいなかった。

しかし、状況の変化はやはり外国からやって来るものなのだろう。64年にビートルズが
アメリカ上陸。
当初は英米のアイドル合戦程度だったものかも知れなかったが、すぐにライバルに
変化が生じた。

それまでのアルバム製作は、シングル曲の寄せ集めに過ぎず、一部の社会派歌手以外は
ヒット曲のプロモートの役割でしかなかった。
あくまでも、まだシングル曲中心の時代だった。
そんな時代にビートルズが、アルバムに対する意識をまず変えていった。
シリアスなアメリカ社会に触れ、単なるアイドルからアーティスティクなミュージシャン集団へと
変化していった。
シングル主義からアルバム製作へと軸足を移していった時期で、65年の「ラバー・ソウル」は
そんな転換期のビートルズの作品だった。
この作品に、一人の天才がすぐに反応した。ブライアン・ウィルソン。
すでにバンドの中ではちょっと浮いた存在になりつつあった彼は、病気を理由にバンドの
全米ツアーを外れて、一人スタジオにこもっていた。
そして(語弊は少しあるが)たった一人で作ってしまったのが、この「ペット・サウンズ」(66年)
なのである。

再発されているアルバムのライナー・ノーツにも、御大・山下達郎が同業者として
「他人のレコード評等したくない」と何かに書いてあったが、この「ペット・サウンズ」だけは
例外にしている。
別の雑誌で萩原健太氏が「すべて書かれてしまった」と絶賛していたが、この2人の解説文が
あるために日本盤がお薦めである。

軽快なオープニング「素敵じゃないか」、山下氏が素晴らしいエンディングと言っている
2曲目の「僕を信じて」は個人的なお気に入りの曲。
以下13曲目の名曲「キャロライン・ノー」まで見事な構成力、そして当時としては斬新な
アイデアを持っている作品である。
正に、ここからトータル・アルバム、60年代後半のアルバム大作主義が始まるのである。

そしてこの作品を聴いて、次に驚きを持って反応したのがビートルズでもあった。
天才は天才を知る!ロックの金字塔「サージェント・ペパーズ」発表の前年のことである。

しかし、真の天才というのは、ほんの一瞬だけしか輝かないものなのかもしれない。

レコード会社やメンバー達からの批評、低迷したヒット・チャート、そして何より自らの作り出した
「ペット・サウンズ」へのプレッシャー、次作まぼろしの作品「スマイル」製作中にブライアンは
「プツン」と頭の中で大切なものが切れてしまった。
ロックの神様は、たった1枚の名作を残すことしか彼には要求しなかった。
以降、ブライアン・ウィルソンなきビーチ・ボーイズも、また元のサーフ・バンドに戻り
ヴァイブレーションを与えることは無かった。
白いウサギが現れ入退院を繰り返し、彼が当時を語れるようになるまで、なんと30年以上の
月日を要するのであった。

バンドとしては「ココモ」がヒットしたときに、武道館へ観に行ったことはあるが
当然彼はいなかった。
今回、ロンドンでのブライアンのライブでは、観に行ったクラプトンも泣いたという。
60年代を感傷させる「ペット・サウンズ」、目撃したかった。

 
夏の定番音楽と言えば、先程のビーチ・ボーイズのサーフ、ホット・ロッド音楽と並び、
レゲエ音楽も夏の季語となっているものである。

しかし、レゲエをここで書くには詳しく知らない、と言うよりあまり興味もない。
ただ、1曲だけボブ・マーリーの名曲、というよりはレゲエ、いやロックの名曲
「ノー・ウーマン・ノー・クライ」は大好きな曲である。
そして、よくある無人島企画に100枚しか?選ばせてもらえなくても、ボブ・マーリーの
「ライブ!」は当然の如く入っている。
私の中で、いかにロックっぽい音楽か?(この説明は簡単であって難しい)が唯一の
尺度としているからだ。

音楽なんて楽しければそれでいいじゃん、もちろん、まず其れを感じなければ好きになれない
必要不可欠なものである。
ただそれでいて、時代を超越でき、更にはその時代と対話できていた曲こそが名曲だと思う。
(別に個人的に思っていることなので、絶対だとも思わないが)
なので興味の無いレゲエでも「ノー・ウーマン・ノー・クライ」は別格なのかな?と思える。
当時米ソ冷戦のさなか、キューバに近いジャマイカにおいては、まともにその余波を受け、
国中が右と左に分かれて内紛していた。
当然、そんな中においては貧困と差別がはびこっていた。
彼がインタビューの中で語っているように、音楽でそれらとまず戦っていた。
トレンチタウン・ロックにはそんなメッセージが詰まっている。
有名な「アイ・ショット・ザ・シェリフ」では、法の番人じゃなく保安官を撃っただけ、と言って
悪の権力と戦った。
国民的人気者になった後は、政治に利用され、その影響を恐れ銃撃され負傷したりもしている。
ロンドンでの、なかば亡命生活も2年で切り上げジャマイカに戻り、78年のワン・ラヴ・ピース・
コンサートで国中の主だった政治家達を招待し、対立していた与野党の党首を同時に
ステージに上げて握手させてしまう。
いち音楽がコレほど国家や政治に対して、直接的に介入できたことは無かったことだ。
大袈裟に言うとボブ・マーリーはそれを成し遂げ、国内統一させてしまう。
たかが音楽されど音楽の瞬間である。

    女よ 泣くな
    女よ 泣くな
    大切な友人達も
    ひとり、またひとりと
    闘いの中で 倒れていった
    どんな 素晴らしい未来が来ようと
    昔の日々は忘れない
    だから 涙をぬぐうんだ

81年、マイアミで死んだボブ・マーリーの遺体がジャマイカに着いたとき、その棺は国旗に包まれ、
母国で最初の国葬が執り行なわれた。

ひとつの音楽余話として…。
季語やファッションでしか語られないのでは、あまりにもったいないので…。
   
ライアー宮崎


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